2002年06月05日

quiet voice 2002_ in memories of Moro Fukuzawa.


人が今、充分に生きるとは何か? 過日急逝した親友の死を通して考えたい・・
福澤もろ 1952年1月9日-2002年5月18日

 もう20余年来の親友だった。親友というのもしっくり来ない・・盟友、朋友、仲間、クラン、バンド・・ソウルメイトと言うべきか・・。1/9と7/9生まれ=星座では正反対だが対になっていて、夜と昼の関係であり、このような出会いは少ないが、気が合えば対の存在として良き友になるらしい。だが性格や趣味など全てが正反対なので、ただの遊び仲間という次元ではいられないわけだ。陰と陽、白と黒、僕は黒なのだろうが、マハ・カーラといえば大黒さまだ。こんな話しももろ君とよくしたものだった。だがこの世は白と黒の間に滲んだグレイの世界〜ドクター・ジョンの言うGris Gris の世界だ。浮き世と浮き世の狭間で心を交流する〜精神のハイ・ソサエティの場がもろ君とぼくの茶飲み話しだった。かれは誰しもが雲から落ちてきた天使だと思ったはずだ。ぼくは仏を守護する童子の像にもろ君の面影を発見していた。かれは日本人が古来から守ってきた信仰が育んだという点で、伝統的なシャーマンに属する。その表現はおおらかで享楽的で、「のどの神様」などという言い方をし、常に天地人の関係で世界を見通していた。しかも見えない世界までも見る・・陰陽眼と呼ばれる目の持ち主だった。彼は確実に「見る者」であったと思う。つまり言葉にできない人の内側にある本質を、言葉にして表現のできる唯一の人だった。

 そもそも80年代初頭に放映された謎の英国製TV番組「第三の選択」という衝撃が始まりだった。見過ごしていたそのビデオを持っている若者がいると紹介され、練馬のアパートに行ったのが最初の出会いだ。もろ君26才ぼくは31才だったと思う。その時に自分で撮った円盤のポラロイド写真を見せてもらった。アダムスキー型の円盤だった。それがもろ君の住む二階の部屋の窓近くに大きくなったりちいさくなったり・・円盤というものにこんなにリアリティを覚えたのはこれが最初で最後だ。しかしぼくは自分の目で確かめたくなった。インドで横尾忠則さんとUFOらしき妙な光体を見て帰国した後、もろ君を含め10人程で大山の見える厚木の原っぱに行き、観測を試みた。そしてとうとう円盤が出た! それは高圧線のすぐ上を、音もなくゆっくりと、大山とは反対の方向から、まるで見せに来たように僕たちの頭上を通り過ぎて、そこにいた全員が「ア!」と気付くと、その場で消えてしまったものだ。その目撃後、ぼくは頻繁に光体を見るようになった。しかしぼくは急激に忙しくなり、YMOの世界ツアーなどが始まった。疲れ果てて帰国後、もろ君に誘われて気の向くまま沖縄へ旅に出た。直感で選んだ島は竹富島。そこで見た天体ショウは人生を変える出来事だった。この出来事はとても神聖で、もろ君と共有した唯一最大の神秘体験だ。だからいままで詳細を公にしたことはないが、ざっと記すことにしよう。
 
 巨大な蛍なのか妖怪キジムナーなのか? しかしどれでもなかった。直径5〜6cmほどの、20Wの電球のような光体が林を抜けて飛んできたが、当初は蛍だと思っていた。ぼくは民宿の屋上から、夜空の星を見上げていて、そのあまりの凄さに圧倒されていた最中なので、蛍には格別気を留めなかったのだが、それが2度もフラッシュをした時に、はじめて蛍以外の生き物だと気付き、それに注目することにした。と同時に光体は目の先5mの空中に停止したまま時間が止まった。

 やがてその光がゆっくり動き始めた。一点から一点へ、まるでコンピュータのように正確に45度の線を描いて。2mほど斜め右上に移動したところでそれは消えた。だがそれと同じ時間をかけて、今度は左斜め上に現れたのだ。この時に階下の部屋からもろ君が上がってきたと思う。ハブが怖いので懐中電灯を持ってきてくれたのだ。この時間をかけたスロウなミニマル・ショウは、それが星の散らばる天に登り、星に紛れて見えなくなるまで続いた。

 気がつくとぼくは金縛りのように震えていたが、隣にもろ君が来ていて、何かぼくに声を掛けてくれた記憶がある。自分でも説明のつかない体験を一緒に共有してくれていたのだ。それがなければぼくの中の客観性は崩壊していただろう。この時の体験が僕達を大きく変えたのは当然だった。精神科医の加藤清先生の言う「Deep Ecological Encounter」とは、このような深い神秘体験も含まれているかもしれない。この場合の神秘とは単に、人間には「説明のできない」ことを示す。

 その後もろ君は音楽の幅が広がり「ハス・クリア」という名曲を歌う。もろ君には名曲が多いが、次の曲は最も有名だ。この歌が出来る時ぼくは良くもろ君と京都のお寺に篭っていた。何か特別なインスピレーションで言霊=歌詞と音霊=メロが降ってきたような、そういう奇跡的なことがもろ君を興奮させていた。「サークル・マインド〜宇宙の歌」という歌。某テレビ局の母と子供の為の歌番組に取り上げられ、今の日本の世相の中で、もろ君はきっと子供たちにこそ歌って欲しかったんだと思う。

 この歌はCDにもなっているので歌い継がれて行くだろうが、次の歌はこの世で最も不思議な存在だとぼくは思っている。「ジュン・クリナ」は沖縄の神秘的な体験をして帰った後に即興的にできたもので、それはぼくの魂にしみ込む歌だった。これほどの音楽が何故未だに知られていないのだろう? ぼくはそのことを思うとこの世の表層と深層をつなぐ力が欲しくなる。常に表層の出来事ばかりがこの世を被い、真実はその騒音にかき消されてしまう。深いところに流れる真実を表に出すことは、この世を司る世俗の力が必要なのだが、その力はぼくにももろ君にも与えられてはいなかった。ぼくがYMOなどで世に出たことは奇遇だ。それは他の人の持つ力のおかげだった。だから未だにもろ君の歌を世界に知らしめることを思いつつも、ぼくにはそれを成就できていない歯がゆさと焦りがある。名曲「ジュン・クリナ」も、ふと気付くとCD化されてはいないし、数人の友人が保管している古いカセットがあるのみだ。

 ミュージシャンであるぼくにとってこの歌は特別な音楽だ。何故か?普段音楽に浸っているミュージシャンには、この歌が音楽の形を越えた特別なもので、耳に聞こえるし心に響くが、本来は手が届かないひらめきの音なのだ、ということがわかる。音楽とはCDや演奏などで普段から手の届く、そして触れることさえ出来そうに思えるほど日常性を持っている一方で、こういう神界の領域にまで広がって行くことができるものなのだ。とくにこういうポップ・ミュージックでは希なことだと思う。この音霊、言霊の湧く、お筆先のような音楽もあるということを、ぼくはもろ君から教えてもらった。影響されたのだ。

 ぼくのソロには必ず歌で参加してくれた。亡くなる2日前に会ったとき、いよいよソロを作るお手伝いの時が来たと思い、構想を練ろうとした矢先に悲報が入り、後悔した。何故もっと早くできなかったのか。こういう時は誰しもがしまった、と思う。申し訳なさで押しつぶされそうになる。だが考えてみれば、自分のやるべき事が最も後回しになっていることに気付く。自分の為に思うべきことをやりたい時があったら、迷わずやることだ。自分が肉体のあるうちに、この世で表現できることをやって、さよならするのだ。そう思う先にあることは、そういうあせりや悔しさを含め、我々は精一杯生きている、ということに行き着く。生きることは大変なのだ。もろ君はその点でも精一杯やって来て、人々に無垢な心のありようを歌い、命を削って人々を助けてまわっていた。そのかわりに一杯愛され、歌を残した。もろ君に限らず、誰しも生きて死ぬ道はこのようなことなのだ。その上でどうしたら楽しく生きられるか、それを教えてくれたのは、もろ君だった。

 このように、もろ君が宇宙のサークルという永遠に帰って行った後も、CDなどでその声を聞くことはできる。しかし彼の凄まじいほどのスピリチュアルな即興は今となっては貴重なものだ。最近ずっと一緒にやっていた「Mongloid Meditation Unit」のライヴの、とてもラフな録音ならここに保存してある。それも含め、もろ君の歌をまとめて今年中にCD化したいと思っている。

 最後にもろ君からのメールの過去ログを読んでいて見つけた言葉がある。それは既に病に冒されていた1998年ころに書かれたものだ。

「長生きしてくださいね。そうしないと日本の音楽の世界がだめになっちゃうから・・・。僕なんかは寂しくなるから・・・だから生きるならば元気でいましょう。」
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2002年05月14日

quiet voice 2002_ 5.14

Note
 この連休はスタジオにこもり高橋幸宏とスケッチ・ショウの歌入れをやっていたが、その合間を縫ってラジオ「デイジー・ホリデー」のオープニングを録ったり、外に顔を出したりして忙しかった。ウーム、ものすごく忙しいね。このコラムも僕には珍しく、頑張って毎月初めに更新することにしたしね。でも春先に較べれば体調は回復している。ただしこの季節は動物も弱るらしい。冬眠したまま永遠に起きないことも多いそうだ。考えてみれば、そういう臨終は自然の慈悲に包まれて眠るという理想的なサイクルに即し、羨ましいかぎりだ。かと思うと人間は生きるのも死ぬのも楽じゃないね。寝るのが一番。子供の頃母が寝る前によく言ってた。「寝るほど楽はなかりけり・・」
 で、人様の前に顔を出したイヴェントについて補足しておこうと思う。

CODE
 坂本龍一君に「遊びに来てよ」と呼ばれ、DJパーティーなら気楽だと思い、先週参加しに行ってきた。前の日の夜中に元スーパースター、現黒幕の東君とCDを選び、パワー・ブックに流し込んだあと、なぜかニュー・トラックを作りたくなり、いっきにリズムをプログラムして新曲を録音してしまった。さらに現在進行形のスケッチ・ショウのラフ・トラック〜「教授」から送られたコード・ワークを使用したもの〜までエディットをし始めてしまい、「これは大サービスだ」と興奮したものだ。でも多分聞いた人には分からないだろう。だってまだ誰も知らないトラックだし、他のmumやGELと一緒に流すので紛れてしまう。そういう音につくってあるのだ。まあこういった受ける側が気付かないままのサービスというのも良くあるし、素知らぬ顔でやってきたことでもある。それに気楽なパーティーだしね・・・と思っていたのは僕の無知だった。

 何故あのDJの席に「ハリセン」が置いてあったのか? それはスタッフの東+吉田らが「まんいちの時のために」用意したのだ。「まんいちの時」ってどういう時だろう?一万回に一回あるかないかのピンチ、という意味が万一というものだが、そんなピンチはあの時に来たっけ?僕が照れ隠しにふざけるのが好きなのを知っている、というだけだ。そこにハリセンがあれば僕はどうしたって使いたくなるに決まってる。だから使ったまでだ。しかもこの時のDJというのはパワーブックにある程度仕込んであったのでヒマだった。仕込んでなくとも音楽をかけるだけなんだからもともとヒマなんだ。DJに怒られるかもしれないが、音楽というのはお皿をかけるより作る方が大変だよ。逆に言えばプレイすることの楽しさはDJの他にはない。だから忙しいふりをするのも飽きて、格好をつけるのも面倒な僕は、隣にいる東君に耳打ちし、「僕をハリセンでたたいてよ」とお願いしたのだ。で、DJの場合、皆踊ってるのが普通でしょ?ところが僕の番になるとブースの前に皆集まってきちゃう。こんなやりにくい状況が他にある? だってお皿をかけてるだけなんだよ。その手元を見て面白いのかねえ。顔つきも見られてるわけだ。君と代わりたいよまったく。君ならどうする?やっぱりハリセンで誰かをたたくのかな。いやいやそれは十年早い。ギャグと悪ふざけは違うんだ。ぼくのは言っておくが「ギャグ」だよ。でもそれを見ていた女の子が「変なの〜」ってつぶやいたのが聞こえたんだ。こういうくだらないことをやって来て、初めて視聴者の素直な反応を聞いた喜びがあった。嬉しかったぼくは思わずその女の子に「・・変でしょ?」と返答してしまった。こうしてハリセンのおかげで喜びに溢れた変なDJを終えた後、僕はある重要なことにに気付いてしまった。それはこのイヴェントがアート・フェスティバルだったということだ。現代音楽のアプローチに近い音響が最期まで会場を圧倒していたし、「教授」もラップトップで毅然とした態度の音を即興で構築していた。ああ、僕のハリセン・ショウは一体なんだったんだ・・。でもぼくは落ち込んだり反省も後悔もせず、ちょっと楽しかったなと思いながら雨の中を帰路についたのであった。

Haruomi Hosono playing list
for "please"(code/ova) party, 4/25 at TN probe
1."daisyworld mix(voice: Dr.James Lovelock)" Haruomi Hosono
2."reach suite" GEL
3."a little asphalt here and there" to rococo rot
4."smell memory" mum
5."documenta/V.A." Phonem
6."New track(rough)" Sketch Show w./ Ryuichi Sakamoto
7."Eple" R?ksopp
8."New track" Haruomi Hosono
9."Rubaiyato" Cold Cut(Haruomi Hosono Remix)

World Standard
 4月29日は新宿のタワー・レコードで鈴木惣一朗率いるワルスタのストア・イヴェントにゲスト出演だった。ヴァン・ダイク・パークスや僕のロータス・ラヴなど、3曲の演奏を聴いて、ますます大所帯はいい音を出すバンドになってきたと思った。丁度いい塩梅。この「丁度いい」というのが実は得難いことなのだ。現代人は自然をコントロールして「都合のいい」世の中を作ってきたが、そのおかげで丁度いいという加減を失ってしまった。「丁度いい」ことは人為的に作ることができない。向こうからやって来るだけだ。自然の恩恵である。カスタネダの本では「地球の応援」を得ると表現している。準備をし自分を整えておけばやって来る。だが「おっと、丁度いいところに来たねえ!」という会話はもう現代では聞かれない。

 で、鈴木君のことだ。あの時ぼくはトークの席で「昨日鈴木君の夢を見た」と言ったが本当だった。喫茶店で相変わらず鈴木君がCDを探しているという話をしたのだが、その行く着く先にあるイメージが僕に見えたのだ。「ロマンス主義が復活するねえ・・」
と呟いたのはぼくだったが、会場では鈴木君が言ったことにしてしまった。これもサービス。ロマンス主義なんてやけに陳腐な言葉だが、イメージそのものは深い。夢はそのような言葉にできないイメージに満ちあふれているので、うまく説明できない。この話をしたら鈴木君は今の自分がロマンティックな気分を大事にしている、と言ってくれたので、この半端な夢の話もいいオチを得て救われた。

 鈴木君を見ていてつくづく僕に似ていると思っていた。顔のことじゃないよ。彼の顔を見るとジョン・キューザックを思い出すけどね。音楽への態度が似ているのだ。しかも僕がやれなかったことをやっている。かつて弟子に追い抜かれた師匠は数多い。あんな大人数の人を気持ち良く演奏に導くのは才能のひとつだ。彼が「可愛い動物園の園長」なら、僕がやってきた仲間は象やサイだ。でも僕はなぜかタヌキ。丁度いい線を是非キープして欲しい。
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2002年04月22日

quiet voice 2002_ 4.22

Daisy Holiday
 長い間続いたJ-Waveのプログラムも3月一杯で終了したと思ったら、4月になって間を開けずに今度は「デイジー・ホリデー」となって続くことになった。Inter FMの寛容な受け皿がなければ本当は終わっていたのだが、有ると無いとでは大違い。空気みたいなものだ。このような機会にメディアを持つことの有り難みと重みを今一度考えてみている。ちなみに4月一杯放送されているものをβversion としたのはコンピュータ・ソフトの慣例を見習い、5月からの正式版以前に未完成なものでも、即スタートさせる急務があったからである。

Wisdom
 ぼくはいままでラジオの中で自分の全てを投入してきた。それはもちろん音楽的な意味であり、音楽を通した世界観でもある。その点では、もうやるべきことはやってしまったという時期が来たとも思っていた。だから終わるのもひとつの区切りであり、大事なことでもある。

 3月の終わりも近い週にぼくは「終わる男」だと言った覚えがある。かつてやったどのバンドも潔く数年で終わっている。それは比喩ではなく燃焼そのもだった。物事は燃えつきるものだ。だがエネルギーは熱となり振動となって時間を越えて伝搬してゆく。終わりが始まりだという意味はそういうことだ。故に意図的に「終わらせる」ことは因果関係上問題を残す。何故なら物事の本質は変化であり、大げさに言えば死と再生だからだ。そのプロセスに人知が介入すれば、宇宙を動かす輪の法則に反してしまう。自然に身を任せることが肝要だ。終わって然るべきものを続けようとすればそれなりの代償がある。今の政治経済を軸とする世界を見ても、それは明白だ。続けようとする人間はまた終わらせようともする。その傲慢な意図を支配するのはMammon〜拝金の神だ。それは利害の思考法以外を麻痺させる。その魔力にかからない方法は、唯一自然を畏敬することだ。このことを自然主義とは言わない。イデオロギーではなく、より良く生きる智慧にすぎない。

Hubert Selby, Jr.
 最近知った輝かしい存在が有る。ヒューバート・セルビー・Jr.(Hubert Selby,Jr.)というアメリカの小説家である。「Requiem For A Dream」という作品がダーレン・アロノフスキー 監督で映画化され、そのDVDを見たのだ。映画は救われない中毒を扱った内容だったが、原作者自ら特典映像に出演し作品について語っているのを見て衝撃を受けたのだ。
現在人々は悲しみの事実を受け入れられず、自ら苦しみを生み出している。例えば心の痛みを伴うような出来事が起こった時に、その痛みの存在を受け入れれば苦しみはない。人生に起こる出来事に抵抗しようとすればするほど、苦しみは生まれるのだ。偉大なるアメリカン・ドリームもそれを避けてきた。(だからそんな夢は)いつか終わるだろう。」
「意識的に自分の存在を作品に残すまいと努めている。作家の仕事は自らが存在することじゃない。芸術家であるためにはエゴを消す必要があるのだ。自分を取り除くのだ。小説の人物と読者の間に自分を介在させることは許されてないのだ。小説と読者とは互いに(直接)関係を持つべきだ。故に本当に伝えたいと思えば感情に訴えねばならない。だがそこに知性(intelligence)はいらない。知識が知恵(wisdom)に変わることはないのだ。自分たちの魂を救えるのは知恵だよ! 私たちには知恵が必要なんだ・・・」
 今のアメリカでこんなことが言える人が他にいるだろうか。ぼくの心は動いた。

*Hubert Selby, Jr. 1928年生まれ。海軍時代に肺結核(TB)で生死の境を体験、その後ホームレスをやりつつ作家になる。「ブルックリン最終出口」(89年映画化)は世界で賛否の大反響。他の著作「ザ・ルーム」(71)「ザ・デーモン」(76/J.J.ベネックスが映画化権取得)。
*DVD 「Requiem For A Dream」ダーレン・アロノフスキー作品「π」の作者)(2001)。

James Lovelock
 以上、ラジオでは抑えている音楽以外の自分を表現してみたが、番組のオーラにはこのような自分の感情が入り込んでいたと信じている。3月まで続いたデイジーワールドでは、ジェームス・ラヴロック博士のメッセージに全てを託していた。博士は今から30年以上も前に地球の恒常性に着目し、海洋の塩分濃度や大気の組成の普遍性に対し、唯一回答できる仮説を提唱したのだ。それは地球がセルフ・トリートメントをしている生命に違いないという、ガイア仮説である。この仮説は当時から現在にいたるまで、芸術家や思想家に新しいヴィジョンを与え続けてきたが、一方では「目的論」にすぎないとアカデミズムから冷遇されてきたり、プラスチック・ニューエイジのアドヴァタイジングに消費されつくした感があるのも事実だ。ただしぼくの中の直感は常に地球を感じるべし、と言い続ける。概念ではなく体感、五官で感じる事以外、意味はないのだが。では今一度ここでその博士の悲痛なメッセージを掲げておこう。この会話は2年前に博士が来日した折り、プロデューサーの桜井さんがインタビューを行い、ラジオ用にコメントして頂いたものである。ちなみに番組名やレーベル名の「デイジーワールド」も博士の仮説の名前であり、レーベル発足時に博士に打診し、名前を使用する許可を受けていることもお知らせしておこう。
「デイジーワールド仮説を提唱したジェームス・ラヴロックです。ガイア、つまり地球に対して言うべきことは、私達人類の存在は最悪に向かっているということです。我々は多くの生き物が分かち合うべき、地球の幸せな道を邪魔している。そして様々な悪事を行って来た。しかし一方で私達は地球の美しさを認識し賛美する最初の生命体でもあります。そのことに於いてどうか、できれば私達の存続を許してください。」
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2002年03月29日

quiet voice 2000_ 「真夜中のデイジーワールド」終了のことなど


 何事も始まり終わる。まずはこの放送を長く御愛聴していただきありがとう。僕の場合、かつていろいろな番組に惜別の思いを経験してきているので、毎週そこにあると思っていた番組が終わることの違和感を想像できる。例えば「シャボン玉ホリデー」も「ツインピークス」も終わった時は悲しかった。ところでぼくは以前にもレギュラー番組をやっていたこともあるが、今回ほど終わることを気にしたことはない。インターネットの無い時代、ラジオやテレビは顔の見えない視聴者に向けて一方的に放送していたものだが、今は少なくともこのBBSに来てくれる人々が熱心に聞いていてくれることを知っている。だから終わりを告げることがちょっとつらかったのだ。

 番組がスタートしたのは1998年の4月、桜井さんが「ラジオやりませんか?」と言ってくれたことがきっかけである。彼女は知る人ぞ知るラジオ界の達人プロデューサーで、最近は奇しくも日曜の同じ時間帯で再放送していた因縁の名番組、大瀧詠一の「ゴーゴー・ナイアガラ」に関わっていた希少な人物だ。当初は短期企画の枠で3ケ月というつもりの放送だった。それがさらに3ケ月延長され、こうして自分がいかにラジオに向いているかがだんだん分かってきた。ひょっとするとこのために生まれてきたんじゃなかろうか、とさえ思ったほどだ。顔が出ないのも気楽だし、好きなことをやり、好きな音楽をかけるわがままも許されている。音楽同様にリズム、間、響きだけでイメージの世界を構築するというこの刺激。ヴィジュアルは想像力を限定してしまうという弱点があるが、ラジオこそ脳を活性化させるメディアじゃないだろうか。ラジオ世代のぼくは確かにそうやってラジオに接して育ってきた。ウディ・アレンの「ラジオ・デイズ」を見たとき、アレンと同ようにラジオへの愛をはっきり意識したものだ。

 こうして熱中しつつも編成変えの3月が来るたびに終わることを予期していた。終了か延長かは自分の意志では決まらない。しかも延長は直前になって突然決まったりする。だから番組内でそれに関する告知は不可能なのだ。通常企画番組は期間限定で終わるのが当たり前であり、延長というのは希である。放送局は時間を提供クライアントに売るわけで、それが営業というものだ。この番組も郵便貯金のスポンサーが契約を終えた時点で終わる筈だった。ところが番組の独自性が買われ、J-WAVEの局持ちで半年の延長が決まったのである。このようにして終わるつもりがとうとう3年以上も続いて来てしまったわけだが、いつもフィナーレを周到に用意していたせいで、終わりそうで終わらないフェイクが生まれた。結局二年半前に日曜の深夜に引っ越し、心あるユナイテッド・アロウズ(様々)がスポンサーについてくれたことで、なお一層番組のカラーが定着し、レギュラー感に拍車がかかったのであった。これは今まで味わったことの無い繰り返しの面白さとマンネリズムの間で悩む時期に入ったともいえる。

 だが面白さが勝っていた。番組を始める前に、決して飽きない番組製作の方法を選択したことが、今日にいたるまで尾を引いていたことになる。飽きないというのは視聴者のことではなく、まず製作者の態度に必要なことだ。以前担当したレギュラーでは半年もやれば飽きてしまうことが普通だった。喋って音楽をかけてというルーティーンは飽きないわけがない。それを避けるために、僕は音楽を作るのとまったく同じ方法で番組のリズムを考えた。時々はマックを使ってデジタル・オーディオのファイルをエディットしたが、さすがにこれは時間がかかり、要所要所でしかできなかったものの、暇さえあれば熱中していたものだ。音楽と違い、ラジオは残らないので労力が報われるとは思えなかったが、実は報酬は見えないだけであった。面白くしようとすればするほど、作っていて面白くなるからだ。誰が聞いていようと誰も聞いていまいと面白くなければガマンができない体質だ。しかも一緒に番組を作っているディレクターの志賀さんも、どうやらぼく以上にそのような体質らしく、編集マジックを駆使して番組をまとめてくれた。

 やがて近隣の業界で「聞いている」という声を聞くようになった。ふ〜ン、面白いと思ってくれる人がいるのだ、という気持は大事だった。何故なら昔、ぼくの音楽は誰も聞いてくれないと卑屈にも思い込んでいたので、ファンのために頑張ろう、なんて気持を持つことは新鮮な体験だったからだ。そのうちこうしてBBSにも感想が増え、ますます聞かれている意識が強くなってきた。しかし、今度に限って2月にはもう番組終了というお達しが届き、ぼくはついに来たかと思ったものだ。3月から内容に終わりをにおわせるような不安感を盛り込むことにした。確定しないかぎりオフィシャルには告知できないからだ。しかも告知そのものがどう言っていいやら悩むことでもあった。で、とうとう先日に後枠で明らかにしたわけだが、また冗談だと思う人もいたに違いない。

 だが果たして本当に終わるのだろうか?つまり形を変えてまた始まる可能性はないのだろうか?番組づくりは大変なのでもうやめよう、という気持と、続けたいという欲が共にある。どちらにせよ、望まれればやることは確かだ。ちなみに製作の桜チームはラジオからこういう番組が無くなって欲しくない、というスピリットを持つ人たちである。桜井さんは「現在のラジオ界でこのような番組を続ける意義」を各方面に説き、それを検討し実行することになった。そしてつい先日方針が決まり新たな航海が始まろうとしている。次週にはより詳しい情報を提示できるだろう。さてどうなることやら・・・・・。
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2002年02月21日

quiet voice 2002_ Boogie Woogie の秘密

ブギウギ特集をやった。あらためて今ある音楽の骨格が早々に芽生えていたことに気づかされた。1938年にシカゴでタクシーのドライバーをしていた Mead Lux Lewis、Albert Ammons、そしてパーティー仲間のPete Johnson のブギウギ・ピアノ・三羽ガラスがNYCのカーネギー・ホールに招かれ、それまで限られた黒人しか楽しんでいなかったブギウギを、大勢の WASPの前で披露したことが発火点だったという。もしそんなことがなくたって、どっちみちブギウギはR&BやJAZZに連なる道を歩んでいただろうが、ロカビリーが生まれたかはわからない。それには白人がかかわっているからだ。ホールでの演奏が大評判で、それ以来ブギウギに熱中したのは主に白人のビッグバンドだった。ブギウギのビートは既にロックの基本的な8ビートを含んでいあたが、そのリズムは当時、ブギウギ固有の特殊なものであり、主流であったSwingの4ビートとは一線を画すものだった。その奇妙でせわしないが、妙に躍動感をそそるビートが、血気盛んな若者を捕らえたのも当然だ。田舎のカントリー・ボーイまでブギをやりだすようになったのだ。それがHillbilly Boogieと言われるようになり、Rock and Roll=揺れて回る=という言葉が流行ったころからRock-A Billyになったんだろうと思う。そのような大流行の末、エルビス・プレスリーという天才歌手が現れ、ラジオの人気DJであったAlan FreedがRock'n Rollと叫んで以来、大きなポップスの道が開いたのである。1951年のことだ。

アメリカの白人達は常に黒人達の音楽に注目してきた。異文化だからこそのエキゾチズムに対する、西洋人特有の好奇心がそうさせたのかわからないが、そのせいで黒人音楽は差別的な用語のレース・ミュージックから、今やビッグ・ビジネスの中心にまで発展してきたのだ。古くはAtlantic RecordsのAhmet Ertegun、その盟友のJerry Wexlerの偉業を讚えよう。しかしアーティガンはトルコ人、R&Bの名門Chess Recordsの兄弟はチェコの移民だった。黒人音楽の成り立ちは複雑だ。アフリカのリズムはもちろんだが、黒人達が不幸なかたちであれ、接触した人種全ての影響が交じり合っている。ブギウギの元であったラグタイムはフランスやスペインの舞踊音楽をもとにしている。しかもバッハがその形を決めたピアノという西洋音楽の中心にある楽器を使っている。ニューオリンズの娼館にはピアノが置いてあったのだ。

こうして面白い音楽はあらゆる文化の波がせめぎ合う境界に生まれた。もちろん白人の介入ということもそれに含まれる。境界には生命が生まれる。陸と海の境界で最初の生命が育まれた。境界は物事が遊ぶ場なのだ。ぼくはこれを生命の基本的な快楽と思っている。楽しいところに創造がある。海に行くとぼくは浜と海の境界で心から安らぎ、そしてまた楽しい。その楽しい気分を渚感覚とでも言いたい。イルカは海と空の間で戯れる。遊びとは動くことだ。エネルギーの交換ということである。境界は異と異が出会うダイナミックな位相の場なのだ。どの国の歴史にもそういう場は生まれ、生まれては消滅してきた。

現在では世界が西洋化をはたし終え、極東といわれた日本でさえアメリカ化をなし終えた。それはとりもなおさず平均化してきたということであり、ダイナミックな遊び、動き、エネルギーの交換は起こりにくくなってしまった。もしあるとしてもそれは否定的で観念的なものに成り果て、意図的に抹消されてゆく。今起こっている戦争はそれである。なんとネガティヴなエネルギーだろうか。もったいないが仕方がない。だって面白いことを作る遊びがないのだから。皆平均化した心や言葉や声で、同じ顔をした大観衆の前で歌うことが良いことだと信じている。当初は誰にも聞かれなかったブギウギのように、そんな音楽が何処かでひそかに生まれているのだろうか?

ブギウギの中には隠された創造性がある。現代の人間はほとんど忘れている異と異のせめぎあうビートのことだ。4ビートと8ビートがぶつかり合う境界は、絶妙なバランスで或るポイントの宙づりリズムが生まれる。それは強いて言うと一拍子である。ビートがひとつひとつ自立していて、アフター・ビートと言われるような主従関係が排除されている。そのステップの連続が宙吊りなのだという感覚を言葉で伝えることは不可能だ。自分の中に異質を取り込み、あるいは育み、それらを楽しむことだと言うほかはない。ロックと一言で言うが、この醍醐味がロックの魂なのだ。こんなことに興味を持って音楽を聞いてもらえば、より楽しい地平が開けるだろう。いや楽しいどころではない。その魔力にとりつかれるだろう。でもそんなことは極めて稀だ。だって本家アメリカの音楽も、今やそんなことに見向きもせず、単純なビートで充分楽しそうにやっているのだから。ケッ。

PS:蛇足
今読んでいる本を紹介したい。「漢字と日本人」。こんな地味な本が16万部も売れている。読むと戦慄が走るほど面白い。16万部といっても日本の人口の0.1%だから、ほとんどの人が読んでない、と言った方が正しい。でもこの世を統計や確率で判断することは間違いだ。ファシズムが好む方法なのだ。16万人もこの本を読めば世の中は捨てたもんじゃない。それほどこの本は日本人の心のありかを明るみに出し、我々の生きているこの時代の日本が、いかに危ういかを知らせてくれる。言語こそその民族の魂だ。『え、いらっシャーせ〜エ』という抑揚が気にならない日本人のことも良く分かる。必読の書。
2002.2.21 Haruomi Hosono



Boogie School On The Air Part 1 / Originators

01 Honky Tonk Train Blues/Meade Lux Lewis/1937
02 Pinetop's Boogie Woogie/Clarence "Pinetop" Smith/1928
03 Pine Top's Boogie Woogie/Cleo Brown/1935
04 In Pinetop's Footsteps/Teddy Powell & His Orch./1941
05 Boogie Woogie/Tommy Dorsey and His Orch./1938
06 Bass Gone Crazy/Albert Ammons/1939
07 Woo Woo/Harry James & His Boogie Woogie Trio/1939
08 Rock It Boogie/Pete Johnson/1944
09 Boo Woo/Harry James & His Boogie Woogie Trio/1939
10 Cow Cow Boogie/Ella Mae Morse/1942
11 Cow Cow Boogie/Cow Cow Davenport/1928
12 Cannon Ball/Nola Lee King with the Pete Brown Sextet/1942
13 In The Night/Professor Longhair & his Blues scholars/1953
14 Hamp's Boogie Woogie/Lionel Hampton & his Orch./1944
15 Ain't That Just Like A Woman/Louis Jordan/1946
16 Roll Over Beethoven/Chuck Berry/1959


Boogie School On The Air Part 2 / Fun It Boogie

01 Honky Tonk Train Blues/Bob Crosby & His Orchestra/1938
02 Tutti Frutti/Gene Krupa & his Orch/1938
03 Beat Me Daddy Eight To The Bar/Woody Herman & His Orch./1940
04 Boogie Woogie On St.Louis Blues/Earl Hines & His Orch./1940
05 Head Rag Hop/Romeo Nelson/1929
06 Kaycee Feeling/Pete Johnson/1944
07 We're Gonna Rock/Cecil Gant/1950
08 Down The Road A Piece/Merrill Moore/1954
09 Down The Road A Piece/The Will Bradley Trio/1940
10 Boggs Boogie/Spade Cooley & His Band/1947
11 Daddy Daddy/Ruth Brown/1952
12 Hey Little Girl/Roland Byrd (Professor Longhair)/1949
13 Lillie Mae/Smiley Lewis/1952
14 Tutti Frutti/Little Richard/1955
15 A Big Hunk Of Love/Elvis Presley/1958
16 You Never Can Tell/Chuck Berry/1958


Boogie School On The Air Part 3 / World Wide Era

01 Canteen Honky Tonk Boogie/Pat Flowers Trio/1944
02 Pinetop's Boogie Woogie/Clarence "Pinetop" Smith/1928
03 Pine Top's Boogie Woogie/Cleo Brown/1935
04 In Pinetop's Footsteps/Teddy Powell & His Orch./1941
05 Boogie Woogie/Tommy Dorsey and His Orch./1938
06 Bass Gone Crazy/Albert Ammons/1939
07 Woo Woo/Harry James & His Boogie Woogie Trio/1939
08 Rock It Boogie/Pete Johnson/1944
09 Boo Woo/Harry James & His Boogie Woogie Trio/1939
10 Cow Cow Boogie/Ella Mae Morse/1942
11 Cow Cow Boogie/Cow Cow Davenport/1928
12 Cannon Ball/Nola Lee King with the Pete Brown Sextet/1942
13 In The Night/Professor Longhair & his Blues scholars/1953
14 Hamp's Boogie Woogie/Lionel Hampton & his Orch./1944
15 Ain't That Just Like A Woman/Louis Jordan/1946
16 Roll Over Beethoven/Chuck Berry/1959
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2000年06月12日

quiet voice 2000_ 揚げ物のゆめ

先日のラジオで口走った「夢」を記しておこう。何の役にも立たないだろうが。

<2000年6月8日>
今日は本当に久しぶりにいっぱい寝たせいか、夢を見た。しかもくだらない。友達と待ち合わせたのは、デパ地下のような大食堂。来ないので携帯に電話してみると、近くまで来てはいるものの、ぼくから借りた『揚げ物』のカセットを忘れたので、取りに帰るという。『そんなことで帰るの?!』と大声を出した次の瞬間、場面は変わり、ジャングルでニューオリンズの『原住民』と日本の『原住民』の『揚げ物合戦』が始まっていた。小皿に盛られた一口揚げ物には、いちいち小さい名札に英語で名前が書かれている。日本の『原住民』の一人が口と鼻から大量の水をぶち巻き、勝つ。余りにも凄い芸なので、2度もやった。となりのフィールドでは自分は『イルカ』だと言い張る犬が、板の壁にキリストのように張り付けられて、クイズに答えている。『新幹線のストレスは何回?』というわけの分からない質問に、即座に『6回』と答える様は、まったくやる気がなさそうで、天才を想わせる。これはよくある犬が数字を数えるパフォーマンスに似ているが、実はイルカなのだから超能力なのだ。

というような人格を疑われても仕方のない内容だ。『揚げ物のカセット』とはどんなものだろう。揚げたカセットではない。ジュウジュウという音が入っているのかもしれないが、目覚めた今となってはそんなものに興味はない。次の『原住民』というのは誤解を招きそうだ。『日本の原住民』といっても、アイヌの人から名乗りをあげられても困る。『原住民』というのは夢の中のイメージであり、他意は無い。野性的な男達、と言ってもいいいがイメージでは昔の少年漫画に出て来た人に近い。この辺りの表現は難しい時代になったものだ。『揚げ物合戦』とは何か?と問われても困る。ぼくは揚げ物が好きなだけだ。特に好きなのはささみ揚げと揚げワンタン。どちらも家庭料理である。夢はこれまでの人生で山程見て来たが、こんなに呑気なものは初めてである。いままでぼくは夢日記をつけて来たので、今後見繕って発表しちゃう。
2000.6.12 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2000年05月07日

quiet voice 2000_ 歌詞問題について


『東京シャイネス・ボーイ』と『ルーチュー・ガンボ』
現在J-Waveの番組D.Wでは、3月にリリースしたCDセットの「HOSONO BOX」に沿って、自分のソロ・アルバムを素材にクロニクルを展開しているのは御存知の方も多いだろう。中学生の頃の『Blue Monk』から始まり、『はっぴいえんど』『ティンパン・アレー』を経て、とうとう『トロピカル三部作』と呼ばれている所まで来てしまった。一旦始めてしまった以上放り出すわけにはいかないが、毎週の作業は気を抜けず、簡単ではない。このままYMOの時代に突入して行かざるを得ないのか、と思うと正直言って気が重い。『はらいそ』あたりで一旦休憩でもするかな。

 こうして5月7日放送の番組では『秦安洋行』に取り組んだわけだが、たまたまこのサイトのゲスト・ブックに書き込まれた歌詞問題を解決する絶好の機会となった。4月14日にゲストのしむーんさんが、この2曲の歌詞が何故載っていないのか、という問題提起があったのをきっかけに、なおみさんやスイカさんを始め、多くの人がレスポンスし、僕がバリ島に行っている間に次々と憶測が飛び交い、『歌詞問題』として盛り上がっていた事に興味を持たざるを得ず、解答する気になったのは僕としては珍しい事かもしれない。

 ではここで、初めて『聞き取り』をBBSに載せたヒロリンさんに先生が添削をしよう。先生も忘れていたんだが、『東京シャイネス・ボーイ』のモデルが鈴木慶一だという指摘には恐れ入った。何故そんなことを知っているんだ?しかし『愛も知らずに、もてずに、春come』とは慶一に失礼だな (笑) 。彼はもててるし、愛もいっぱい知ってる‥筈だ。次。きんさんの『ルーチュー・ガンボ』の解析は間違いが多いな。しかし無理も無い。日本の古語に近いウチナーグチ (沖縄言葉) は、近頃沖縄の若者達も話せないんだから。ところで言い出しっぺのくせに「聞き取りが苦手」と言ったしむーんさんが、たった2行だが言い当てたので、その論理的アプローチを少しだけ誉めておこう。utsubokazuraさんは自分のサイトで『東京‥』の解析を試みていたが、全然チャウ。でもその考え過ぎる程の熱意は買っておこう。僕がここで発表する事を知って、なぜかあせって自分の見解を出して来たポムポム・ジョーさんは、後にも書いたが肝心な箇所を聞き取ってくれたので、今回の殊勲賞だ。何も出ないよ。 他の人が嫉妬するから。他にもりんじーさんから『サヨナラ』の歌詞が、そしてきんさんはYMOの『マッド・ピエロ』の歌詞が謎だという指摘があったが、どちらもすっかり忘れてしまった。特に『サヨナラ(Japanese Farewell Song)』の『パイリン パイロン パイ ランダイ リン サヨナラ‥』なんていう歌詞は、引用をしたアール・グラント(Earl Grant)版が、そもそも摩訶不思議な中国語で歌っていて、ぼくは「なんていい加減な歌だろう」と思っていたほどだ。さて、こんな具合に僕に於ける歌詞は、『風来坊』という歌を引き合いに出すまでもなくいい加減なものであり、皆さんの心を煩わすほどのものではない。つまりこれからも『いい加減な』歌詞を作ることを許していただきたい、と思うのである。
2000.5.7 Haruomi Hosono



Tokio Shyness Boy (東京シャイネス・ボーイ)

顔を真っ赤に首まで染め抜き はにかむ*。
喋る言葉も吃 (ども) りがちに はにかむ。
それはまさに 生っ粋の東京シャイネス・ボーイ

宵越しの銭持たずに 臍 (ほぞ) 噛む*
火事と喧嘩に、花火に喜ぶ
実を言えば、オイラ東京シャイネス・ボーイ

暑い日射しに風邪ひき 鼻かむ
夏の盛りに心はしばしば かじかむ
何を隠そう あっしゃ 東京シャイネス・ボーイ

Words & Music by Haruomi Hosono ,1976

*はにかむ=恥じらう (Honey Comb=蜂蜜)
*ほぞかむ=臍を噛む=悔しい思いをする、後悔する (ほぞ=おへそ)

駐留軍の米兵が日本人のやたらに恥ずかしがる姿を見て、それをTokio Shynessと言っていた。シャイネスは名詞なので、その後に「ボーイ」と付けたのは文法的に間違い。僕のミス。しかし江戸っ子の英語の理解力なんてそんなものさ。なにしろ粗忽者なんだから。そのソコツでオッチョコチョイで照れ屋の江戸っ子像は自分でもあるが、自称火の玉ボーイの鈴木慶一だともいえる。照れると首まで真っ赤になる慶一が面白かったんだ。
この曲の構造はもちろん、ニューオリンズ・ピアノの創始者である"Professor Longhair"のスタイルを忠実に再現したつもりだ。ただしイントロのピアノ・フレーズは僕の発明である。歌い方が不明瞭なのも、プロフェッサーの歌い方に影響されたんだと思うが、25年も前のことだし記憶が曖昧だ。それに何故歌詞を載せなかったのかも忘れてしまった。さらにマズイことに、実は聞き取れなかった箇所があったのだ。BBSで『正式な歌詞を発表する!』なんて宣言した手前、何度も聞いたのだが‥。しかし書き込みの中で一人だけ、その最も不明瞭な部分を聞き取っていたのが『ポムポム・ジョー』さんだった。その箇所とは『暑い日射しに‥』のところである。いやはや助かったので感謝。その他の人達も良く聞き取っていることに驚きを感じている。迂闊な事はできないものだ。しかしこうして人々のプッシュがなかったら、おそらくずっと不明のままだったかもしれない。Thank you and thank you again.



Roochoo Gumbo (ルーチュー・ガンボ)

真南 (マフェ) ぬ風が運ぶ香り
得 (え) も言わず心を焦がす
ヤマトゥンチュは いちころさ
その真南風 (マハエ) にゃ勝てぬ

渡海 (とけ) ぬ調べ カチャーシに酔えば
ウチナンチュの意気も見えるよ
ヤマトゥンチュは いちころさ
その真南風 (マハエ) にゃ勝てぬ

聞かせて 島の歌
馨 (かぐわ) せて 島の香り

「ヤマトグチは喋 (ア) びらんど
吾が胸内 (ムニウチ) は知らなそてぃ」
ヤマトゥンチュは いちころさ
その真南風 (マハエ) にゃ勝てぬ

「真南 (マフェ) から吹ちゅる潮風 (ウスカジ) に
心 (ククル) 寄 (ユ) したる この (クヌ) 想い」
ヤマトゥンチュは いちころさ
その真南風 (マハエ) にゃ勝てぬ

聞かせて 島の歌
馨 (かぐわ) せて 島の香り

聞かせて 島の歌
馨 (かぐわ) せて 島の香り

Words & Music by Haruomi Hosono ,1976

Roochoo"は琉球の中国語を英語読みしたもの。"Gumbo"はニューオリンズのごった煮ケイジャン料理。転じてニューオリンズ・フォンク。"Fonk"というのは"Funk"のもとになったニューオリンズ独特の言い方。1972年に作られたDr.Johnのアルバムによって、『ガンボ』という言葉が有名になった。沖縄のチャンプルーもインドネシア経由のごッた煮で、『はいさいおじさん』を丸福レコードで録音した頃、喜納晶吉は奇しくもチャンプルーズという名を付けている。

"Roochoo Gumbo"はその"Gumbo"と"Champloo"の両方に敬意を顕わすものだ。音楽の基本的構造は、ほぼニューリンズのスタイルで、イントロに聞かれるピアノのフレーズと、沖縄音階のリズム・ギターから出来たものである。そして歌詞に於てはベタベタの沖縄讃歌となっており、自分がいかに沖縄音楽に衝撃を受けたかを表現している。この頃はまだ沖縄に行ったこともなく、理想化しているかもしれず、沖縄の人にはくすぐったいだろう。しかし歌詞は辞書を頼りに無理矢理ひねり出しているので、訳が分からない詞ともいえる。そのような遠慮からこの歌詞を載せなかったわけだ。とはいえ当時はこの曲を沖縄の人に聞いてもらうことなど、全く考えてはいなかった。それが最近になって照屋林賢から久保田麻琴と共にコラボレーションを持ち掛けられ、新たに沖縄の言葉で再録音したことは感無量だった。25年かかって、やっと自分のリスペクトが沖縄に通じた思いがする。 この音楽の魂も喜んでいるだろう。
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

2000年03月27日

quiet voice 2000_ Hosono Boxのことなどを考えてみた。

 数年前から女神がぼくに微笑んでくれている。『おつかれさま‥』ってね。今年は刈り取りの年だ。数十年と蒔いて来た種が育ち、満月のハーヴェストを迎えたのだ。これで隠居するのが人生というものだが‥まだやることは一杯だ。

 「Hosono Box」が完成し、このサイトに届いた愛あるメッセージの数々に感慨を覚えた。かつてこんな経験があっただろうか?長い音楽生活で初めてだ。かつてYMOは人気があったが、愛を感じたことはなかった。ぼくの活動は種々雑多で、ひとつひとつをリアルタイムに、リニアに追っていくと迷路にはまるだろう。それぞれの分野に愛好家はいるが、まず絶対数が少なく、特にソロに関していえば、一枚のCDもぼくの生活を支えてくれたことはない。昔、あるメジャーのエクゼクティヴが「細野君、もっと女の子にもてる音楽をやれば?」と言った。でも出来ないんだよ、そんな器用な事。天分がないんだから。そういう人々は皆YMOのセールスを夢見ていたに違いない。ぼくもそれに答えようと無理をしたこともある。しかしそんな音楽産業にいれば、ぼくのような遊び人は常に敗北者だ。そしてぼくはラット・レースから逸脱し、デイジーワールドを始めたのだ。淡々と活動していこう。好きなことだけをやっていこう、と決めたのだ。一枚でも売れ、一人でも聞いてくれれば満足しよう。いや、誰も聞かなくても、自分が聞いてるのだから、それで救われるとも思った。やけに淡々としていた。しすぎていた。そういうものだと思って今日まで来たのだ。しかし今ぼくの全体性を提示してみて、初めて愛を感じる事ができた。こんなボックスを出すなんてことは自分の発想にはなかったので、こんな感慨も予想外のことだった。だから今さらながら、というよりリリースされた今はじめて東榮一や鈴木惣一朗にお礼を言いたい。ぼくは今回なにも創作せず、ただただかつての自己作品がまとめられていくのを見ていただけだ。それなのにこのような心的変化を経験するとは!今までぼくは創ることだけを目的にしすぎていたんだろう。でもそれが世に出れば人は必ず聞いてくれるし、寛容に受け止めてくれる。幾つになっても学ぶことは尽きない。

 先日のJ-Waveでは、「Hosono Box」のDisk-1、つまり『はっぴいえんど』にいたるまでの、ぼくの音楽遍歴である膨大なポップスをかけまくった。その放送を家で聴いていると、またまたこのボックスが今の時代に出る意味を感じたのだ。自分ではその時代時代にできることを、ある時は一心に、ある時は遊びながら音を鳴らしてきたにすぎない。しかしこのボックスと、それにまつわるポップスは、時間を圧縮したアーカイヴとなって、『個』を超えた何ものかを示すようになる。その何もの=メディアなのだ。媒体、仲介、憑霊。こうして過去と未来をつなぐメディアの一単位として、ぼくはミディアムの役目を感じざるをえない。今は本当に20世紀と21世紀の挟間なんだな。

 もうひとつ。孫が誕生したこと。このボックスに納められた音楽と同じ時間、ぼくは若者だったような気がする。自分が変えなければ何も変わらなかったような気もする。でも孫は誕生という神秘の力でぼくの場所を変えてしまった。そして浦島太郎のように『あっと言う間にお爺ちゃん』になった。この十数年の安定した位置関係を変えてしまうほどの力とは何か?生命だ。その孫が生まれた日、ぼくはティンパンのレコーディングで奇跡的な音楽が誕生することも経験した。孫と同様に、まるで女神が微笑んで授けてくれたようなものだ。種を蒔くのは自分だが、育て、刈り取るのは愛すべき仲間であり、収穫は多くの人によって為されるだろう。今年になり、ぼくのなかで何かが大きく変化している、ということが分かっていただけただろうか。

2000.3.27 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

1999年11月15日

quiet voice 1999_ 星の巡り


 長らくこのページに書かなかったので、蜘蛛の巣が張っちゃったな。ぼくは本当に筆不精者なんだ。書くことは一杯ありそうだけど、表現が難しいし、人さまに発表するまでもない事が多いし‥。ハリー&マックのCDやレコーディングの事は、音楽系の雑誌でくり返し喋ったから、もういいか。

 付け加えるならば、ライヴを何故やらないか、ということだろうか。それには色々理由があるが、最大のものは『レパートリーが少ない』ことに尽きる。あと、久保田麻琴くんの心境の問題もある。彼はやるとなると全力疾走する男だ。だからライヴをやる場合、優秀だが忙しいミュージシャンをおさえて、念入りなリハーサルをやらねばならない。お金も時間もかかり、エネルギーを使うだろう。それだけの準備をしたら、当然ツアーをしなければ納まらない。つまり一年の多くを費やし、没頭せずにはいられないことになる。それが嫌なんだ。没頭してしまう自分を良く知ってるということだ。

 そのことに関しては僕の方がもっと嫌がる。だって曲を作るのでさえ嫌なんだもん。作り出せば止まらないのを知ってる。とことんやってしまう。アルバムにいっぱい曲を書くなんて気が遠くなる。一生涯にいい曲はそんなになくたっていいじゃないの。でも作るからには頑張っちゃう。これが嫌なんだ。レコーディングの間は没頭して楽しいけど、終わるとヘナヘナなんだから。YMOの時なんかレコーディングが終わった後、『おや?細野君、身長が縮んだね?』と良く言われたものだ。それほど身をすり減らしてやるべきなんだろうか?答えは『やるべき』なんだ。それが楽しいからね。だから嫌なの。楽しいことは止められない。あーやだやだ。

 でもそんなことはすぐ忘れるから、今までやってこられたんだと思う。実はもう次のプロジェクトが始まりつつあるし。ティンパン・アレーと言ってた仲間の鈴木茂くんが言い出したことだけどね。ドラマー復帰を果たした林立夫くんを誘って、今年の6月頃『なんかやろうよ‥』って僕のところに来たんだ。

 久保田くんもそうだけど、ここのとこ20年ぶり、というのが続いている。何故か?誰も理由は分からない。今年1999年という時の巡りもあるだろうし、花が咲き、枯れ、また花が咲くという人生の循環もある。ぼくらの世代がロックをやり始めて、今やっと成熟したことも大きい事件だ。ロックはほぼ僕と同い年だといえる。ニューオリンズで"Proffesor Longhair"がブルース・ルンバを録音したのが1949年。"FatsDomino"が登場したのは翌年。だいたいこの当たりから爆発して来たんだ。

 ロックはビジネスになり過ぎて退廃し、とうとう1960年代になると一度崩壊したね。ヴェトナム戦争のダメージや、ケネディー暗殺という事件が引き金だったけど、社会の枠組みが変化しようとしていたと思う。ボブ・ディランが象徴的だったな。学生達もポップスを聞かず、フォーク一辺倒になっちゃった。そんな中から"Buffalo Springfield"や"The Band"のような、『イノセント』で『イノヴェーティヴ』な音楽が奇跡のように生まれて来たから、2〜3年遅れたけど日本でも"はっぴいえんど"が出来たんだ。今、若い連中がそのころの音楽に共振しているよね。同じような時代を迎えている感じがするな。ワールド・スタンダード、クラムボン、中村一義、キリンジ、かせきさいだぁ、etc‥あげればきりがない。

 先日は「風街ミーティング」という、松本隆を偲ぶ、否、讃えるライヴに出たけど、"はっぴいえんど"の『あしたてんきになあれ』『風をあつめて』、小坂忠の『しらけちまうぜ』をやったら受けたなー。高野寛くんにメンバーをまとめてもらったおかげだ。中村一義くんとも初めて会った。松本隆くんも20年ぶりにドラムを叩いたんだぞ。

 こうした事が偶然起こっているとは言い難い。そのもう一つの気になる事象がある。それは『星の巡り』だ。これは机上の星占いではなく、冥王星のことだ。今年2月11日のNASAの発表を覚えてるだろうか?以下に記す。
楕円軌道の冥王星は今まで20年間、その定位置を外れ、海王星の内側にいたが、今日の11日、惑星としての定位置の、太陽系の一番外側に戻った。この状態は、今後288年続く。
ここに『20年間』という数字が出ているではないか。1979年から1999年の間は太陽系が特殊な動きをしていたことになる。占星学的にも色々取り沙汰された冥王星は「プルート」といい、占星学では「悪魔」のシンボルであるという。その動きが今、激しいのである。8月12日には皆既日食と共に、惑星のグランド・クロスがあったが、この時も冥王星だけがその動きからはずれ、自由位置にあった。そのことが「危機」を象徴する、ともいわれていたのだ。

 その2月に開催された天文学術会議では、「冥王星」がやっと惑星番号を名付けられた。それに呼応したかのような天体の動きは、象徴的に思えたものだ。ともかくこうして冥王星が内側に来ることは歴史的に特異な事象である。この20年がそれに当たるわけだ。そしてこの時代は悪魔的といえるほどバブリーで、人類の危機を招いて来た。底辺が表に、表が底に沈んだ時代だ。"Emerging"〜隠れたものが出現する〜という時代だった。わけの分からない事が浮上し続けているじゃないか。悪い事が多いけど、いい事も起こっている。今まで何の役にも立たないと思われていた純粋性が、音楽の中から浮上するのを感じるのは、どうもぼくだけじゃなさそうだ。

1999.11.15 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

1999年04月01日

quiet voice 1999_ Welcome to daisyworld !


 毎週月曜の夜八時からJ-Waveで放送していたdaisyworldが、4月から土曜の深夜0時に引っ越して、続行することになった。週に一度の放送は大変だが、貴重な時間枠をスポンサーもつかないまま提供してくれるのだから、とても有り難いことだ。この番組は当初、SP2000というシリ-ズのひとつとして、去年の4月からスタ-トしたものだが、半年の約束が一年に延び今日に至る。

 4月3日のリニュ-アル・スタ-トでも少し喋ったが、一年もやるとやめられなくなる。かといって、依頼されなければ続けることはできない。こんなジレンマも、執着心が出てきたからなんだ。一年目が近付いて来たころ、この番組が続くかもしれないという話が出た時点で、ぼくは自分の欲に気付いた。本来執着心の強いぼくは、若いころ大事なシングル盤のコレクションや、愛用のプレシジョン・ベースが盗難にあったり、失恋や父親の死などの経験を通して執着心を捨てるようになった。さらにネイティヴな教えそのままに、刹那を生きるはめになってしまった。しかし、こと面白いことや気持ちいいことにはいまだ欲を捨てきれない。現世が好きなんだな。

 テイ・ト-ワくんからもいわれたが、あの世とこの世を行き来しているぼくは、今こそこの世をじっくり体験せずにはいられない。この20世紀に生まれ落ちて、世紀末に立ち会える今だから、ラジオをやっている意味がある。だが3月の最終日、つまり一年のラストだった29日の放送は、どうやって終わらせるかをずっと考えていたものだ。ヘリコプタ-でサヨナラするのは、半年目の十月に思いついてサヨナラしかけたときがある。このおかげで、次の土曜深夜の再スタ-ト版ではヘリコプタ-で帰って来なければならなくなった。ただしぼくが宇宙人だったというアイディアは東くんによるものだ。最近登場した「お喋りアヒルさん」は気にいっているキャラクタ-だが、誰の声かは謎にしておこう。これも今後レギュラ-になりそうだが、オットセイやたぬきやかっぱも出てくることになると思う。最終回?のテ-マは「サヨナラ」だったが、季節がら街にはリストラの声が多く、若干シリアスになったのが気になっている。放送の直前には自殺者の悲惨なニュ-スがあったし。しかし笑うことを忘れちゃあダメね。

 番組を毎週つくって行くのは少々骨がおれる。だから面白がらなければ続けることは困難だ。ということは、手を抜きさえしなければ面白いということだ。以前ロ-カル局でレギュラーを一年間やった時は、スタッフの台本とおざなりな選曲に甘んじて失敗したことがある。すぐに飽きてしまったのだ。それを教訓にして、刹那に淡々と、しかし面白がってつくってきたのがdaisyworldである。だがよく考えるとこの行為はクリエイションの別名ともいえる。音楽もこうして作られるわけだから。ただしぼくにとってラジオは音楽をつくるより楽で楽しい。作曲は大変だからね。その点ラジオは、人のつくったCDをかければいいんだから。さらに編集が面白い。DJが面白いのもポイントは編集だ。そしてぼくは編集の鬼だ。1msec.の間合いが気になる。もう遅いが、この歳になって発見したことは編集こそ天職だったということだ。それに、顔をださないで音だけの世界を構築できるラジオが向いている、ということも。

 ではここでどのように番組をつくっているか、簡単に種明かしをしようと思う。まずスタッフはそもそもぼくに声をかけてくれた、サクラ・プロダクションの桜井お姉さんのもとに、ディレクタ-の志賀青年と我が低音事務所のマネジャ-である東くん、というメンバ-である。この優秀なチームが毎週臨機応変に、つまり行き当たりばったりにつくって来たのだ。ぼくは自分のスタジオに日々閉じこもり、コントや音楽の素材をコンピュータにぶちこんで、デジタル編集をやっている。思いつきを即その場でクリエイトできるMacこそ、ぼくにとっては無くてはならないパ-トナ-である。じゃあMacのシステムを紹介しておこうかな。
* Mac/Power Mac G3 266MHz/OS 8.1
* Sound Board/PowerDomain 3940UW
* Sound System/DAE
* Aplication/DigitalPerformaer 2.5 + ProTools
久保田麻琴くんとのコラボレ-ションも、このシステムで最近スタ-トしたばかりだ。あとはティンパン・アレーのこともあるけど、それはまた今度ね。

1999.4.1 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

1999年02月21日

quiet voice 1999_ 未来は背後に隠れている。しかし過去は目の前に広がる。

〜ネイティヴ・アメリカンの言葉より〜

 はっぴいえんどの連中と会い、健忘症が治った。変化を求めて来た人生だが、思い出してみれば何も変わっていないような気もする。それにしても彼らの天分にはあらためて驚きを感じた。1969年当時は、様々な才能に偶然出会って始めたように思っていたが、どうも偶然ではないみたいだ。天分とは天から分け与えられた力なんだからね。風待ちろまんも、ナイアガラ・ムーンもバンド・ワゴンも、なんて素晴らしいんだろう。あらためてぼくは敬意を表する。

 The Quatationsのライヴに出た。友情出演というやつだ。「札幌というノーザン・デルタ地方のロック」、のように言えるバンドは日本で他にはいないな。「メンフィスのビートはfat backといって、きもち後ろにズレるんだ‥」なんていうのが粋なんだけど。

 デンゼル・ワシントン主演の去年の映画、「悪魔を憐れむ歌」をヴィデオで見た。悪魔のポゼッションという陳腐なストーリーは、かつてのボディー・スナッチャー系のSFがやり尽くしたものだ。でも「接触」で人から人へ乗り移ってゆく様はなかなかのものだった。悪魔の口ずさむ音楽が、ストーンズの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」なのは笑える。時を同じくしてテレビでは五色のiMacのBGMにやはりストーンズの「レインボウ」が使われていた。悪魔か‥。メディスンマンのローリング・サンダー曰く、「悪(evel)は象徴ではなく、実在する。」‥冥王星の動きも最近怪しいし‥。

 同じくヴィデオ・シリーズの「ミレニアム」は、サード・シーズンが七月に出るそうだ。遅い!出演者がほとんど中年男ばかりなのに、アメリカでの放送は人気が上々らしい。ベビー・ブーマーの活性化は音楽の世界だけではないようだ。

 前回のジョニー・マーサーの話しに出した、"Hit The Road To Dreamland"という歌の後日談をひとつ‥。

 時々ひとつの曲に恋をすることがあるけど、今はこの歌に魂を奪われている。そんな音楽は今までに10曲あるかないかだ。でも取り憑かれるほどの魔力が音楽にはあるんだろう。そういう音楽との恋愛は無上の歓びだ。そんな時はいろいろコインシデンタルな事が良く起るもので、先日は夜中のカフェで例の歌が流れたんだ。初めて聞く女性ジャズ・ヴォーカル版だった。そんなことは大したことじゃないって?いえいえ、大騒ぎだったな。かのブライアン・ウィルソンだって、カー・ラジオからロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」が流れた時、車を止めて大声で「なんだこりゃあ!」と叫んだそうじゃないか。いくつになっても音楽の力の前には胸騒ぎがするぞ。で、その時歌ったシンガーが解らなかったので、一緒にいたミハル・コシ嬢が店の人に聞いてくれたんだ。ゆくゆくはスィング・スロウでカヴァーしようという大事な歌なんだから。でも有線放送だったし、電話までしてくれても継ながらない。翌日あちこちの店でジャズ・ヴォーカルのCDを探したが、記憶と知識を全開しても該当するものが見つけられず、ヘトヘトだ。これで諦めてはいけない。有線に電話したらわかったんだ。これもミハル嬢にやってもらったんだが‥。その歌手の名を聞いてびっくりしたのはぼくだけだな。年寄りだから。Connie Stevensなんだ。「信じられない!」と大声を出したね。だって彼女はハワイアン・アイのような60'sのTVシリーズに出ていた、アイドル系ポップ・スターだよ。なーんだ、という気持ちになったのは、それなら簡単に手に入りそうだったからさ。しかし事はそうイージーではなかった。東京中の約4件のショップでは見つからなかったんだ。これは天の神様に遊ばれてるんだ、とわかったね。だからいまだに手にいれてない。有線のDJの人はこのサイト見てないよね?君はマニアだ。

 J-Waveの番組では時々「パンパカパーン、今週のハイライト!」という、トリオ・ザ・パンチ風ジングルで始まるコーナーをやっているけど、そのうちここで今までにそろった上記の歌を取り上げるつもりだ。最近は対談が続いたのでやってないが、今まではクロード・ソーンヒル楽団の「スノウ・フォール」と、レイモンド・スコット・クインテットの「ペンギン」を流したことがある。どれも二つとない、すぐれた音楽だ。

 おいしいハンバーグが食べたい。

 次は何について書こうかな。「悪魔くん」にしようかな。じゃあ近い内に、股ね!

1999.2.21 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

1999年01月25日

quiet voice 1999_ Johnny Mercerとは?

 悪性の風邪が流行っているので、気を付けましょう。映画の話題を徒然なるまま、タイプしていこうかな。まずは「真夜中のサバナ」と「L.A.コンフィデンシャル」の共通点。

 クリント・イーストウッド の作品は結構好きだけど、この「真夜中のサバナ」(Midnight in the Garden of Good and Evil) は冗長で期待はずれだったな。でも続けて見た、噂どおり面白い「L.A.コンフィデンシャル」(L.A.Confidential) と照らし合わせると、妙な符合が浮かび上がって来たんです。もちろん両方にケビン・スペイシーが出演している、といったことではなく、音楽のことだけど。両者ともサウンドトラックがとても良くて、おもわずCDを買ってしまったよ。

 まず「真夜中のサバナ」の音楽。あの映画の舞台になったサバナという街の家が、往年の大作詞家、ジョニー・マーサー (Johnny Mercer -born in Savannah, Georgia in1909)の生家だった、というのがぼくには特別なことだったんです。その後、映画館で「L.A.コンフィデン シャル 」を見たら、やはりそのジョニー・マーサーの曲が使われてました。そこで使われていた曲は、"Hit The Road To Dreamland"というんですが、この曲は数年前、戦時中の戦意昂揚、スター総出のハリウッド・ミュージカル"Star Spangled Rhythm"(1942) のビデオを手に入れた時に知ったんです。そのワンシーンでDick Powell と Mary Martin の男女デュエットが歌っていたのが好きになって以来、越美晴との幻のユニット "SwingSlow" でいつかカヴァーしようと暖めていたところでした。このHarold Arlen 作曲のオリジナルは「L.A.コンフィデンシャル」の Betty Hutton版より百倍も良い名アレンジで、"Golden Gate Quartet" の共演が素晴らしい。去年ラジオでも一度かけたから、聞いた人もいる筈だな。実はこっちのサントラ盤は偶然なんだけど、古いレコードを買い漁っていた20年前に手に入れてたんだ。そんなことも忘れてたから、アナログ・レコードの整理をしていて、これを見つけた時の嬉しさといえば、皆さんならお解りでしょう?

 ところで「放送」ではビデオの音のような、CDかアナログ以外のものは法律上使いづらいので、アナログがあったから放送できたんです。こんな話をしたからには、この曲はまたオン・エアしなきゃね。

 さてと、マーサーで最も知られている作品は、Henry Mancini と組んだ "MoonRiver(1961)、 "Charade"(1963)や、シャンソンの「枯葉」の英語訳(1947)。ホーギー・カーマイケルとも共作してるし、作詞だけではなく自分でも曲をつくる才人だ。1976年に亡くなったアメリカの国民的作詞家だけど、日本人に馴染みがないのは、「作詞」という領域だからかな。こんなことを先日、「ドマーニ」という女性誌の取材でも話したので、そのうち出ると思います。ジョニー・マーサーに興味のある方はhttp://johnnymercer.com/にアクセス。

 映画を見続けていると、作家達の傾向の流れが見えてきたりするのでやめられないんだ。同時期に見た「ブルース・ブラザース2000」もそんな映画のひとつだったっけ。ダン・アイクロイドが「このままではアメリカの伝統音楽(ロックの事だ!)が、機械の音楽(YMOがやってたやつだ!)に駆逐されてしまう!」と叫んでいた。で、ヴードゥーの手を借りてロック・コンテストに勝つという話。師匠のDr.John も出ていたので、くだらないけど楽しかった映画だ。この"Voo Doo Magic" というのが、「真夜中のサバナ」の中に出てくるネイティヴな女呪術師に重なってしまう。彼女が行った墓場の儀式は、「ブルース・ブラザース」のアチャラカに比べると、やけにリアルで恐ろし気ななヴードゥー・マジックだった。このように霊が浮遊したり、人に取り憑いたりする映画で最近の佳作は、「悪魔を憐れむ歌」でしょうか。

 はい。ついてきてくれたかな?でもこの続きは今度ね。あー疲れた。

1999.1.25 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

1999年01月09日

quiet voice 1999_ "MILLENNIUM"

 さてと、誰と約束したのかよく覚えていないが、先週の続きを書いたので、読んでいただこうと思う。番組でも一月十一日に特集する"MILLENNIUM"についての補足のようなものだ。御存知のように来年の西暦2000年は、暦の上ではまだ20世紀だが、キリスト教の文化圏では正に千年期の終りであり、新たな千年期の始まりの年だ。この千年期をミレニアムといい、カトリックが認める伝承上では「終末」の後に再臨するキリストが「メシア〜救済者」として統治する「至福千年王国」のことだ。この王国に復活し救済される者は殉教した信者のみとされ、かつて二千年前も、殉教を熱望する過激な「千年王国運動」が流行したらしい。この終末思想を知れば知るほど、いかに我々日本人には縁が薄いかがわかる。

 このようにキリスト教に疎い日本も、西暦を採用した時から西洋の神話に、自動的に組み込まれたことになったのだ。今は1999年なのか、それとも平成11年なのか?どちらかを都合次第で使い分けるのも、日本人の柔軟性と居直ることもできるが、実は引き裂かれた文化に身を置いていることは確かだ。ノストラダムスの予言なんか、キリスト教神話的体系の末端に過ぎないのだが、いつの間にか刷り込まれているし、「恐怖の大王」だけが浮かびあがっている。

 だからこれはもうパラノイアなんだ。体系を組むことができないのがパラノイアだからね。時間と空間の何処に今の自分がいるのか、肉体と魂の両面で理解することが体系というものだ。それはアジアではマンダラとも言うよ。ユングがそこらへんをはっきりさせた人だったっけ。日本では加藤清という精神医学の長老が、そのことにプラスして「業の成就」という臨床的ひらめきを提示しているので、出版されたばかりの先生の対話集「この世とあの世の風通し」(春秋社)を読んでみてね。

ではこの続きはまた来週。

1999.1.9 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007

1999年01月01日

quiet voice 1999_ a happy new year 1999


 やあみなさん、しばらくでした。とうとう1999年になっちゃったね。思えばずいぶん長いあいだ、このサイトは仮死状態だったな。みんな忘れてるだろうし、こうしてこっそり書かせてもらおうっと。でもこれからはレギュラーで放送してるラジオと同じペースで‥おっと、こんな宣言はやめとこう。

 さて本題だ。今言ったようにぼくはJ-Waveで番組をやってるけど、最近ではラジオが一番面白いんだ。何が好きかって、編集以上のものはない。自分がこんなに編集マニアとは知らなかったので、道を間違えたかもね。だって音楽をつくるより面白いんだもん。これ、まずい?ここQuiet Lodgeに潜って、一晩中コツコツつなげてると我を忘れるよ。音楽を作る時も同じように忘我の境に入るけど、編集ってそれとは次元が違うね。DJの喜びかな。ハードディスクに声やコントや音楽といった全ての素材を取り込んで、デジタル・パフォーマーでエディットするんだ。かなり細かい作業さ。密度が濃いったらありゃあしない。だから毎週このやり方でつくりこむのは無理なんだ。なるべくやりたいけど、月に二回が限度かな。で、これほど入れこんでるのに、ラジオは放送したらおしまい。これがいいんだ。CDと違う潔さ。せいせいするんだ。勿体無いと思うこともあるけど。ところでこの番組はいつ終わるんだっけ?当初は半年の約束が、もうじき一年になるのか。やめたら編集エネルギーの行き場に困るよ、きっと。でも続けるのもてえへんだしなあ‥どうなるのか誰も今のところ知らない。

 次の話題。一月四日の放送にゲスト出演してくれた松本隆くんのこと。彼のサイトはきれいで上手につくられてるよね。「風街茶房」っていうんだけど、今となってはそこのリンクからここに来た人も多いんじゃないかな。だったらぼくがそこで対談してるのも知ってるね?松本くんとラジオやサイトで話したことは、今からもう三十年も前にやってたぼくたちのバンド、「はっぴいえんど」にまつわる当時のこと。ラジオでも言ったけど、ぼくは今まで振り返ったことがないんだ。少なくとも自分からはね。ほんと。しかし今になって振り返りたくなったのは何でだろう。1999年という時代のせいかな。ここら辺のことは今度また刊行されるムック、「モンド・ミュージック3」のインタヴューで鈴木惣一郎くんに答えてるから、読んでみてね。

 さて、この続きは来週書こうかな。では股(Y)。

1999.1.1 Haruomi Hosono
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007