2002年12月24日

quiet voice 2002_ 12.24




Dec.20, 2002
前置き
いやはやこのコラムもずっと書くヒマがなくて心苦しかった。だって目茶苦茶に忙しかったんだから。WILD SKETCH SHOWのライヴが終わってホっとしたのもつかの間、今はまたレコーディングに入っている。来春のリリースに向けてミニ・アルバムを作っているのだが、作ったらすぐ聞いてもらいたい、というのがミュージシャンの気持ちだ。ライヴではその新曲を披露したことで、スケッチ・ショウの微妙な変化・展望を感じてもらえたはずだ。多少北方的で音響的な方向は今の僕たちの気持ちである。デビューアルバムではその片鱗はあったものの、定かな方向感覚はまだ無かった。前のレコーディングが9ヶ月もかかったのは、現在歩みだしたバンドの道をみつけるために必要だったということになる。特に相方の高橋幸宏にとって、YMO〜ソロ以降での活動の中で最も重要な探検が始まったと感じている。バンドのセオリーを踏んで、スケッチ・ショウ名義では3枚のアルバムをつくるつもりだ。デビューアルバムの新鮮さ+セカンドの完成形+ラストの退廃、というセオリーは体験を通して得たものだが、半ば冗談でもあり本気でもある。その証拠に、今回用意しているミニ・アルバムは、たった3枚では表現しきれないプロセスのドキュメントを提示しておきたいからで、今後もできる限り活発にしていきたい。それに関連してミニ・ライヴへの意欲もあることも白状してしまおう。
ところで、現在55才にもなり、しかも常日ごろ怠惰なオッサンが何故これほどまでに活発になっているのか?その訳を今まで書きためたメモを元に順を追ってお話しよう。

March,18 2002
音響の現在1
 最近の音楽を聞くと、世界の若者達の間で静謐と暴力が同居していることに気付いた。以前、Brian EnoがAmbient をやりはじめたころ、クラブではハウスがフィジカルに鳴り響いていて、両者は一つになることもなかった。二つが出会ったのは1990年になろうとしていた時代、誰かが始めたのではなく(ORBというのが通説だが)、ごく自然に出会った。しかし今まで相いれないものが出会うことは奇跡だった。90年代の世紀末、そのAmbient Houseは見事に精神と肉体の差し迫った極限を表現するに至った。
 しかし今や既に21世紀。数年前のミレニアムの緊張が倦怠に取って代わり、茫漠とした21世紀の景色に音楽は無力感を隠そうとはしなかった。しかしその裏では考えられない分裂と統合が秘かに進行していたのだ。かつてはジャンルとして分離していた静と動が、90年代の奇跡的化合を通過した後、今再び分離を見せ始めた。しかもそれはもはやジャンルなどという便せん的なアジェンダではなく、個人の中で形而上的に為されつつあるのだ。
 中原正也がかつてユニットに命名していた「暴力温泉芸者」という三題咄は、
この現在の統合的分裂を思い起こさせる。暴力と温泉と芸者はどれも直列ではなくパラレルに羅列されているだけだ。暴力と温泉はとりもなおさず緊張と弛緩のホルモン分泌であり、芸者はフェロモンの分泌といえる。これこそまさに今の世の中そのものだ。この世に生きるかぎり、社会は自己に取り込まれ、自己は社会に映される。全ての人間が暴力温泉芸者を心の中に温存している。

June,28 2002
音響の現在2
 1950 ̄60年代の現代音楽はロジックで感性の枠を決め、それより外に出ない方法論で音楽(或いは絵画)を創作していた。1970年代に芽生えたアンビエントは創作の方法の枠ではなく、聞かれ方〜音響を限定し、音楽自身は感性の赴くままにまかせた。ただしビートは意図的に排除された。2000年代になり、これまでの全ての試みは感性の基本階層に取込まれ、意識されることもなくなった。今の音響的なミニマルを聞くとそう思う。

July, 3 2002
音響の現在2
 今世紀になってますます音楽はそのジャンルを細分化させ、とうとう意味を失して来た感があるが、昨今主にエレクトロニカを発端に蔓延し始めた「音響」は、ここにいたって音楽のジャンルをとうとう溶解してしまった。音響とは渋谷系から派生した名であったが、現在ではかつての狭義からは逸脱している。もはや音響派は意味を持たず、新たなポップスの体裁を持ち始めた。それはエレクトロニカにも収まりきれないあらゆる音楽において発生しつつある。グリッチを好んで多用したポップ・ミュージックやフォークを誰が想像出来たであろうか。だがここに到る過程には歴史がある。
ノイズを初めて意図的にCDに刻印したのはドイツにあるミルプラトー・レーベルのアーティストだ。1994年頃に出たovalのそれは今聞いても過激でラジカルなアイディアだった。つまりCDというメディアの枠に収められない音〜デジタル情報の飽和を意図していた。もはや音楽そのものではなく、メディアへの挑戦だった。始めてそれを聞いた時の違和感は忘れられない。ぼくの世代はノイズをいかに排除していくかということに全神経を集中していたからだ。だがその違和感がぼくを無性に惹きつけたことも確かだ。とはいえその当時ミックスを終えた鈴木惣一朗が、一曲に不安な程のノイズを入れたことにぼくが異議を申し立てたのも忘れられないことだ。この時代、感覚の拡張が始まる前夜だったように思える。
 それ以来、その衝撃はアンビエントでミニマル化した若者の感性に吸収され、
いまではオブジェクトとしてしっかりCDのメディアの中にちゃっかり収まっている。挑戦的だった表現の大衆化が同時多発してきたのだ。そんなノイズも、その嗜好は人それぞれで言語の違いと同じほど異なる筈だが、現実には皆同じ音を出すようになってきている。アンビエント初期のS E は音を取り巻く精神による世界〜地球へのコミットメントであったが、それが今は音そのものの響きの中に織り込まれるようになったのだ。そのザラザラした或いは縮緬のような傾向はヒップ・ホップにもダンス・ミュージックにも蔓延しつつあり、既に飽和状態に達した感もある。だがより多くの人々がこの傾向を受け入れつつある今日、当分は流行していくということは事実だ。
 この音楽の誕生は、エレクトロニカのツールであるデジタル機器の使われ方に無関係ではありえない。いまMASなどのオーディオ・インターフェースが誰にでも買えるものになり、ソフト・シンセや、またそのプラグインでオーディオ・データに処理を施すことはポップス、ジャズやアヴァンギャルド、はたまたプロ、アマを問わず行われていることである。その結果、アコースティックでフォーキーな音楽にもその嗜好が反映され、もはや時代の響きという様相を呈して来ている。いつの時代も音の嗜好が存在していた。音が世界の気分を反映してきたのだ。50年代〜80年代にいたる音の変遷はHOTからCOOLであったという一面もある。90年代にはCHILL OUTへと、音楽の温度が確実に低くなってきたことは、地理的にいえば音響の北上化というべきものだ。まだ音楽は温度の高い騒々しいものも好まれてはいるが、新しい音楽の響きを聞けば、人間の行くべき道が静けさと少なさを示していることがわかる。もうひとつ重要なことを付け加えるならば、男性性から女性性へのシフトも見逃せない感性の変化だ。争いを回避できない男性ホルモンには飽きれるばかりだという感じがする。

Sept,22 2002
STUDENT
〜僕たちは皆生徒だ〜
 越美晴が名人の風間さんから、かなり古い小振りのアコーディオンを譲り受けた。数十台もある手風琴の中でも、倉庫に眠っていたアンティークな代物だったが、音色はさすがに良いので録音には格好だ。しかし小振りとは言え美晴ちゃんには大きい。ぼくがパリで見つけたホーナーのジュニア用は丁度良いサイズで、舞台でのコシ・ミハルにはぴったりだったが、鍵盤の数が足りないのが悩みの種だ。そこで美晴ちゃんがネットで調べたところ、小型でしかも鍵盤がそろっているものを見つけた。その型はジュニアよりも若干大きいステューデント型ということだった。まさにぴったりだが、楽器に大きく『STUDENT』というロゴが書かれていて、それに抵抗を感じたらしい。でもぼくはそれこそ面白いことだと思い、購入を勧めたのだ。
 後日、以前に買ったメロディカとアコーディオンの音楽を集めたCDを聞き直していたら、中にとても素晴らしい音があった。ゴンザレスという名のユニットで、ホーナーのメロディカがフューチャーされていた。ライナーのコメントを読むと、そのミュージシャンはモントリオールのライヴに出たとき、楽屋にメロディカがあって、それ以来気に入って使うようになったらしい。彼が言うにはメロディカという楽器は、日本でいうスペリオパイプのように、学校の授業で使われるので『student』の印象が強いが、それが気に入っているというのだ。そして『僕たちは皆生徒なんだからさあ』とも。
このように繋がる事柄は面白い。そうだ。僕たちは先生になってはいけない。生徒でいよう。そう強く思った次第。
posted by dwww at 00:00| quiet voice 1999-2007