ティンパン・ヒストリー
1970年、東京にひとつのバンドが誕生した。日本のロックのパイオニアとして必ず名前が出てくる「はっぴいえんど」だ。メンバーは大滝詠一、鈴木茂、細野晴臣、松本隆。彼らは歴史に残る3枚のオリジナル・アルバムを発表して73年に解散し、以後、メンバーはそれぞれの道を歩みはじめた。松本隆がドラマーから作詞家に転身して、太田裕美、松田聖子から KinKi Kids まで無数のヒット曲を手がけてきたのはこぞんじのとおり。大滝詠一はナイアガラ・レーベルで山下達郎、大貫妙子のシュガーベイブや伊藤銀次のココナッツ・バンクを紹介。プロデューサー/作曲家としてばかりでなく、みずからも『ロング・バケーション』「幸せな結末」などの大ヒットを放っている。
鈴木茂と細野晴臣は「はっぴいえんど」解散後、松任谷正隆、林立夫とキャラメル・ママを結成し、最強のリズム・セクション/プロデューサー・チームとして70年代前半のポップスのサウンドを一新した。75年ごろ、そのキャラメル・ママが、矢野誠&顕子、浜口茂外也、斉藤ノブら周辺メンバーも含めたミュージャン集団に発展的に生まれ変わったのがティン・パン・アレーだ。この名前はニューヨークのミッドタウンに音楽出版社の集中する地域の通称からとられた。
アルバムも残しているが、ティン・パン・アレーはグループというより、プロデューサー・チーム/リズム・セクションとして活動することが多く、ゲストには坂本龍一、佐藤博、後藤次利、桑名正博、久保田麻琴、小坂忠ら豪華な人たちが流動的に加わっていた。しかしメンバーは次第にソロ活動に移行し、77年に自然消滅。それを受け、細野晴臣のソロ・アルバムのレコーディングからYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が生まれ、世界に羽ばたいていったのが79年のことだった。
「はっぴいえんど」や、キャラメル・ママや、ティン・パン・アレーが行なったのは、世界最先端のポップ・サウンドに呼応しつつ、独自の音楽を生み出すことだった。ここに名前をあげた人たちの70年代のアルバムで聞ける音楽のすごさは、いまなお多くのDJ/ミュージャンからリスペクトされているとおりだ。彼らが活躍したのは日本のポップスの構造が根本的に変化した時期で、いまわれわれがJ・POPと呼んでいる音楽の原形がこの時期に生れている。彼らはその変化の音先案内人として時代を駆け抜けていったのだ。
めぐりめぐって細野晴臣、鈴木茂、林立夫の3人がセッションをはじめたのは昨年のこと。ジャム・セッションが行なわれたのは、アマチュア時代の細野晴臣や鈴木茂や林立夫が音楽を語り合ったまさにその場所に立つスタジオ。そして「ほんとうのセッションをはじめてやった気がする」と細野晴臣が語る演奏に、多彩なゲストが加わって完成した『TIN PAN』の音楽は、70年代のティン・パン・アレーの香りを受け継ぎつつ、その後の歳月による熟成を経た、粋で、豊かで、オーガニックなもの。ポップ冥利につきるとはこういう音楽のことを言うのだろう。そして彼らの描いてきた大きならせんは、これからもきっと果てしなくめぐり続けるにちがいない。
北中正和
2001年01月24日
disc catalogue: TIN PAN HISTORY
posted by dwww at 00:00| 2nd season_1999-2001